断頭台

オタクのキモいとこを見せます

共感力と自己愛の話

 

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こんにちは、気持ちの悪いオタクです。

普遍性や蓋然性の一切を放り投げ「私はこう思うけど貴方がどう思うかは貴方次第」という主観100%のスタンスであり続けた当ブログにおける初のパーソナリティ的な面での自分語り記事になります。

今回も毎度の如く主観100%です。全ての文の枕詞に「私の視点では」が着きます。エビデンスもなしにベラベラ喋ってるだけなので、「貴方もそうでしょ?」という共感を求める文章ではありません。

 

言語化の為の語彙はどうにかしようがあっても専門的な知識には疎い身なので「なーに当たり前のこと/間違ったことをツラツラと」と思われるかも知れません。このブログを書くという行為自体が言語化で認識を強化する試みに過ぎないので、読んでてもにょもにょしたその道の方がいらっしゃっいましたら、暖かい目でブラウザバックしてください。

 

なんでこんなこと考えてんの?

私はそもそも共感力に欠ける人間である自覚がありました。他人の感情というモノは、損ねた場合の自分への影響(損得勘定)の物差しに過ぎず、「私にとって他人の価値観や感情なんかどうでも良いけど、他人からしても私のそれらなんてどうでも良いモノ。上手く擦り合わせてお互いに気持ちの良い着地点を探る事が良いコミュニケーションである」と考えており、実際今までこのスタンスで私が嫌な思いをしたことはほぼありません。だから自分の共感力の低さというものを意識する必要がなかったのです。

そんな中で軽視していた「共感力」を深く強く認識することになった出来事は、まさかの「夢」でした。

 

数ヶ月前、私がGREEで知り合った10年来の友人の訃報が届きました。

GREE引退後も3年に1度くらいは会って遊ぶ仲で、私にとってちょうど「印象に残りすぎず、残らなさすぎない存在」でした。良くしてくれた親族が亡くなれば喪失感に暮れますし、名前も知らない人物の訃報にはひとつも心が動かない という意味でも。

訃報を受けた直後も「あらま、若いのにもう会えないのね」程度にしか感じておらず、センチメンタルに浸ることなく日常を過ごしました(実際Twitterでも全く触れていない)

 

そして、この記事を書いているその日にその友人が夢に表れました。

内容は、友人が私と過ごした記憶(そうでないものまで含むが)を追体験するというもの。

存在しない記憶という夢特有の荒唐無稽なオマケまで付けて、行った場所、撮った写真、過ごした美しい日々が「生きている友人」と共にフラッシュバックしていきました。

そして、楽しく笑いあっている最中「死にたくなんかなかった」という訴えと共に夢から覚めることになります。

 

この夢、特に最後の言葉が強烈に脳裏に焼き付き、私は「死」について考えながら1日を過ごすことになります。

考えを巡らす中で、「なぜ私は今になって当時より重く友人の死を受け止めているんだ」という問いにぶつかりました。

自己分析で出した結論はこうでした。

 

"友人を喪った"ことを強く意識させられて、初めて当事者意識(喪った者として他人事でなくなった=エンパシー)が芽生えた

 

当たり前に一緒だった親族が亡くなった時と同じような当事者意識の芽生えが起きた事で、こういったよく分からん事を考えるに至ったわけです。

 

 

 

共感力ってなに?

よく共感力が低い人間の例として挙がるのは「自己中心的、他人の都合ガン無視で自分の道理を通す」という像です。逆に高すぎると何でもかんでも利他思考になったり当事者として捉えてしまうため気疲れが絶えないそうなのですが、そちらにはいまいちピンと来ず。

 

「他人との感情の共有」という行為は難しくて、共感力の低い私は「パチでウン万買った!嬉しい!」「今日贔屓球団が勝った!嬉しい!」に対して、口で「良かったね〜すごいね〜」と言いつつ「でも私には一銭も入って来ないし、クソザコベイスは今日も負けてるし、お前のお気持ちなんざピンと来るわきゃないわ」と考える訳です(いちいちこんなに攻撃的な思考をしているわけでなく、あくまで例示です)

 

逆に言えば私がギャンブルで勝ったりベイスターズが奇跡の勝利を果たしたりすればその感情を当事者として味わい、「自分の感情として」理解に至る訳です。

 

つまり、「共感力」というのは当事者意識の有無にあるのでは、という仮説を立てました。

 

当事者として他人の感情に寄り添うということは、私のように他者の感情を損得勘定で測るのではなく、実際に経験した訳でもない事柄に関しても自分の感情を相手の視点に移す行為であるということになります。心転身の術かな?

 

主人公の視点が観測者である私と結び付けられる創作物では当事者意識も働くので普通に泣きます。観測している間に限り、主人公の経験は私の経験でもあるので。さすがにワケ分からんすぎるものについてはアレだけど。

 

高すぎても低すぎても弊害があるようですが、「低い側で損した自覚」は全くないので、付き合い方の問題ではあると思います(まあこれも関わった人間の快く思わない気持ちに無頓着すぎるがゆえの傲慢な無自覚という可能性は否めませんが)

 

自己愛ってどういうこと?

まず大前提として、私は自分が大好きです。それでも自己評価はナルシズムの対極にあります。容姿は劣っていますし、知識やスキルに突出したところはありません。交友関係はすぐに切り捨てるから友達も少ないし、客観的に見て私に褒められたところや人間的な魅力なんて欠片もないわけです。
なぜこうも清々しいまでの卑屈さをブチ撒けながら自分が好きだといえるのかというと理由は単純で、「自分以上に自分と倫理観や暗黙知を気持ちよく共有できる相手がいないから」です。
他でもない自分が一番自分のご機嫌を取るのが上手な存在なのです。そんな存在を嫌いになる理由はどこにもありません。

 

「自分の機嫌しか考えていない=他者のことは何も考えていない」ではなく、「その相手の機嫌を損ねた結果と私への影響」まで考えています。私にとって得する関係なら維持に努めるし、どうでも良ければそれこそ傲慢な振る舞いも辞さない、といったところです。そして、「得する関係を維持するよう振る舞うことを選択した(私にとって気持ちの良い選択をした)自分」に満足します。その思考プロセスこそが「最高に気持ちの良い暗黙知」であり、私の自己愛は、低次元な自己満足の積み重ねの上に成り立っているのです。

 

自己愛 で検索するとまず最初にヒットするのが「自己愛性パーソナリティ障害」の記事。
要は他者からの肯定評価欲しさに自己を誇大化してしまったり、自尊心が損なわれる事柄に打たれ弱すぎたりするといった障害ですが、まあ私にその気があることは否定できません。
ネットの海に気持ち悪くて恥ずかしい文章を排泄してきた私ですが、「恥をかく」ことに耐え難い苦痛を覚えます。恥からの自衛のためなら平気で人間関係を切り捨てます。


「恥」の原因は「主観評価を下回る客観評価」にあるため、私は自衛のため、常に「個人的に納得のいく水準自己評価の最低値 として設定する」という対処を採ります。

 

「私の行いに""これより下""は存在しないが、それでも私は満足している。私が満足しているのだから、ほかの人間が如何な評価を下そうが知ったことではない」。こういった自信満々な卑屈さによって、私は自身を守っています。

例えば、服装がそうです。

「オシャレに着飾ると、自分が見せたい水準よりダサく見られた場合恥をかく」ため、華美な服装を敬遠しています。しかし、自分の普段の服装こそが「"恥ずかしくない"の最底辺」であるという自信だけは持っています。

私が0点だと思っている事柄に他者が100点中30点の評価を下しても、「へぇ、そんなに良かったかい?」と感じる訳です。

 

ただし、逆に言えばこの自衛は「0点(=自分が納得いく水準)に出来なければ成り立たない」ことになります。

 

つまり、自分を好きであり続けるために、常に自分を納得させてあげられる自分である必要があります。

 

あ、ちなみに「恥ずかしい文章」と宣いながらこんなブログを見せびらかしているのは、「自己評価最低値の文章を私が納得して公開しているため」です。文学的露出狂の悲しき性。

 

 

自己愛と共感力が結び付くとき

私は、他人であっても「暗黙知が比較的気持ちよく共有できる人間」は好きになります。

要は、私に近い人間が好きなのです。

暗黙知が共有されることで、伝聞に対して私自身の思考プロセスや感情の処理が投影され、当事者意識に辿り着きます。当事者意識に至るということは、共感ができるということ。

つまり、「この相手の主観には私の考え方を適用しても良い」と認識して初めて共感力が発揮される事になります。

それは創作物のキャラクターでも同じことで、私がCUE!の宇津木聡里を"性愛でも愛玩でもなく好き"なのは、「自分の納得を最優先に生きる」という特徴に「共感」しているからではと気付くに至りました。もちろん私の求める水準とは文字通り次元も違いますし、同一視することは絶対に有り得ませんが、投影ならできます。そこから答え合わせのように共感ポイントがバチバチハマっていくことで、好感度もモリモリ上がって行った、と。

 

いや、オチはキモオタクトークかよ となるかもしれませんが、言いたいことは全部言ったのでこの辺で〆ます。

 

お疲れ様でした。