断頭台

オタクのキモいとこを見せます

卑屈を纏う旅人と北風と太陽

 

こんにちは、認知の歪みギガMAXな気持ちの悪いオタクです。
この「気持ちの悪いオタクです」という挨拶からも漏れ出ているように、私は卑屈さに自信を持っています。
誇るものでも何でもない、世間的に見ればマイナス要素にしかなりえない姿勢ですが、私の生きる道はそこにあります。
卑屈という個性は損しがちに思われますが、濫用さえしなければ楽に生きる資質になりえます。むやみに振り回して同情なんか集めるから損を被るのです。
今回は、スーパーウルトラ卑屈マンが考える「卑屈との付き合い方」から、ダメな人間が楽に生きるにはどうしているのかをご紹介します。天上から嗤うもよし、参考にするもよし、是非目を通して頂ければと思います。

 

あ、本当は能力も魅力もあるのに同情欲しさに卑屈ごっこやってる人間は対象外です。存在自体が嫌味なんじゃ。せいぜい存在するかも分からない苦しみに苛まれながら、劣等種を踏みつけた足で輝ける環境をお探しください。

 


・自虐はエンタメ

私は、ブログもTwitterも、自らの卑屈さを切り貼りして文字を連ねています。
ロクでもない過去、劣った能力、存在しない長所。これらをネタに昇華し、底辺よりちょい上からの景色を表現するのが私の愉しみです。
その中で大事なのは「嘲笑ってもいい、突っつかれてもいい、同情するならお前もゴミだ」を大前提に""開き直る""こと。
卑屈な人間なら良くわかると思うのですが、劣った人間に後ろ指を指す行為って楽しいじゃないですか。さらに、悪評には異様に敏感じゃないですか。その対象がサンドバッグとして用意した自分であれば遠慮も要らないし、自分に刺さることを恐れていた悪評の矢は、デコイと化したサンドバッグへと放たれます。
自己否定に走りがちな人間は、""他人事として""自分を否定していいんです。
肯定しようのないクズを無理やり肯定するのは歪みでしかありません。
キモオタ、部活では二軍の帝王、2と3以外の数字がない通知表、両手の指すら要らない数の友達・・・これは私のことですが、こんな人間の何を肯定してあげれば良いのでしょう。「最底辺は避けれてて偉いね」以外に言うことがあるでしょうか。ロクでもない人間として吊し上げたほうが幾分健全ですね(もちろん他者に向けて振りかざす思想ではありません。弁えましょう)

 

卑屈を盾として扱うのは間違っています。その内側には棘がある。気を遣われる度にその棘に蝕まれます。同情の言葉や態度程度のもので、心のダメージは回復するでしょうか。海水で喉の渇きを癒すのはやめましょう。
他人事にして、パージして、ボコボコに殴るサンドバッグにすればいい。どうせ否定をやめられないんだし、どうせなら笑いながら否定してやればいいのです。

 

さすがにやたらめったら会話に差し込むのは煩わしいですが、否定や自虐を笑って楽しむにはどうすれば良いか意識することが、楽に生きるための1歩目になります。

 

 

・「卑屈からの脱却」は北風

卑屈からの脱却を謳う情報サイトは揃って下記のお題目をあげます。
「否定をしない」「長所を探す」「自信を持つ」「前向きに」
こんなの「まっとうにやろうとしても」クズには無理です。どうせダメな人間ですから。
世に溢れるご高説で唯一そのまま取り入れていいのは「他人と比較しない」くらいじゃないでしょうか。差を感じたら土俵から降りるなり真正面からがっぷり四つを組むのをやめるなりすれば良いだけなので。

 

「自分の長所を探して自信に!」なんて言われても、テンパったドラえもんのようにそれっぽいものを引っ張り出して引っ張り出して、やっとこさ見つけた「マイナスではない要素」は残念ながら長所ではありません。長所のない人間は存在しないという戯言に耳を貸すのはやめましょう。

なぜこんなに「変えよう」としてくるのでしょうか。変化を強要される時点で私のような劣等種にはハードルが高すぎます。環境に恵まれて自ら気づくなり、変化に耐えることができたりするのであれば、それに越したことはないのですが。
無能なくせに努力も苦労も嫌いで面倒だから、またはそれらが何の報いももたらしてくれなかったから卑屈になっていくのです。
無意味な痛みを伴って矯正させにくる脱却策は、強引にマントを吹き飛ばそうとする北風のようなものです。

 

・楽になるために必要なこと

まずは、「自分の考えを100%理解できるのは自分だけ」ということを自覚することです。

卑屈な人間には、まず他人から欲しい言葉がかけられることはありません。他人は絶対に正解してくれません。正解に至れるのは自分だけです。

自分の思考・感情・価値観・倫理観に素直であり続けることが、自分を救うことになります。

 

 

次に、他人に期待しないことです。

認められようなんて思いは捨てるべきです。クズとしての認知以外は期待するべきではありません。
これで、承認欲求や自分は救われるべき人間だという思いが酷く拗れることはなくなります(そういった欲求を全面的に否定するわけではありませんが)。

自分の機嫌は自分でしか取れないよ、ってことです。

 


そして、卑屈な人間は「自分が劣っている・間違っている」ことに関しては自信満々です。

バカの癖に自己否定の為ならまあ頭が回る回る。自らを貶める才能だけはあるんです。他人が自分と同じ失敗をしても「よくあることなのに」と気にも留めないのに、自分がやらかした途端この世の終わりのようなテンションになります。1周回って凄い自信です。
そう、その負の自信があればいいのです。そのほうが開き直りやすい。実はもう自信を持つことはできているのです。あとは堂々とするだけ。堂々としないと同情と顰蹙しか集まりません。楽になれるかの分水嶺はそこにあります。「どうせダメだ・・・」なんて分かりきった所で止まるからナヨっちく見えるのであって、「けど想定以上になれば儲けモン」までをワンセットにするべきです。
堂々と「私はどうせ三振して帰ってくるけど、1球でもバットに当てたら凄くね!?」と宣言して、仮に全球空振っても「やっぱりダメなんだ・・・」と思わず、「1球でもバットに当てれば良いみたいなこと言ってたどっかのバカが3つ空振って帰ってきたな?」と笑えば良いのです。

加点があれば超ラッキー、そもそも0点で元々。それを嘆くか笑うかの違いでしかありません。

どんなバカでも数こなしてる内に数mmは成長します。そのうちファールチップくらいは起きるようになるし、結果は同じ三振でもバットに掠る度に「思ってた以上のことを起こせたな……」と感じればOKです。低次元な自己満足で自分を赦してあげることは重要です。

しかし、成功体験と共にその自己満足の次元は釣り上がるものです。レベルが上がるほど要求経験値量は増えます。ですが、原点にダメ元の精神があれば自己満足の次元をリセットすることができます。強くてニューゲームです。

とにかく低い目標設定で自己満足し続けること。成長の中で行き詰まったらリセットすること。まあ当然ちっとも成長なんかしませんが、これが楽なんですね。

 

もう1つ言うことがあるとすれば、「他人に甘く、自分にはもっと甘く」という思考で生きるととても楽になれます。

ちょっと上の方で「他人の失敗には寛容になりがち」みたいな話をしたと思うのですが、「他人よりダメなやつがやったってそりゃダメになるだろ」と笑い飛ばせばそれでヨシ。ナチュラルに他人を赦せているなら自分自身もその基準で判定すりゃいい訳です。先ほど何度か挙げた「低次元な自己満足」は自分を赦す根拠としても扱えます。どうせ世間様からはゴミクズのレッテルを貼られてる以上、自分を評価して良いのは自分だけです。

 

 

 

ちょっと長くなったのでここで私が言いたいことをまとめると

・自分の機嫌の取り方は自分しか知らないからちゃんと自分1人で満足出来るようにした方がいいよ

・結果的には失敗するけど、失敗の中から低次元な自己満足を見出して「どうせダメだ」を「ダメなのは分かりきってたけど思ってたよりやれたな」に昇華することが大事だよ

・行き詰まったら↑の感覚にリセットすると良いよ

・他人にできないことは当然自分にもできないから失敗して当たり前だよ

 

ってことです。

中でも「どうせダメだ」を昇華させるという考え方が最重要かなと思います。そこで留まってると決して楽にはなれません。まあその前提に「自分の機嫌は自分でしか取れない」というものがあるので、結果的に全部大事なのかもしれない(?)

 

 

 

・吹きすさぶ北風の寒さに耐える?暖かい日差しに身を委ねる?

虚しいでしょうか。でもこれが楽に生きるということです。

結局、人格そのものへの肯定や出した成果に基づく評価が欲しければ重い腰を上げるほかありません。まあ、私は好きなことでもない限りそんなもの要りませんが。

そもそも、甘ったれて生きることを否定される謂れはありません。頑張りたい人が勝手に頑張ってれば良い。

変わりたければ北風の寒さに晒されて変わるか、私のようにぬくぬくとりあえず生きながら安楽死の普及を待つか、どの選択も自由です。

 

以上が劣等種の生き様です。反面教師にするもよし、取り入れてみるもよし、あなたの人生にそよ風程度でも影響を与えられたら幸いです。